1.松島町の歴史と概況

町民憲章
(1)町の歴史
 本町の歴史的沿革をみると、あ村はこらい太田氏、庄屋として村政を執り文化14年の調査によれば石高15石3斗5升、197戸、1,304人とあり、塩田20余町歩が明治43年廃止により海運業に転じ、今日の隆盛の基となった。今津は明治22年町村制施行に於いて今津村、今泉村が合併し今泉の庄屋岡部九郎左衛門、文化年度の石高は247石6斗2升1合、155戸、1,154人であった。合津の庄屋は岡部治左衛門、石高272石3斗5升1合203戸、1,746人であった。教良木河内村は今津村と同じく。
◇明治22年教良木と内野河内村とが合併したが、内野河内には天領時代山方番所があって、山方役に大西氏任じ天草の山野を支配していた。寛政年度の調査によれば、教良木の庄屋植村弥一郎、石高422石9斗2升7号、233戸、1,578人とあり内の河内は庄屋岡部善平103石、745人であった。
◇昭和30年に至り阿村、今津村、教良木河内村の三ヶ村が合併して松島村と称し、昭和31年8月有明町の一部米山部落を編入同年9月1日松島町となり、天草か三島の最初の町となった。
(2)町の概況
 本町は天草か三島の東北端に位し、大戸の瀬戸、柳の瀬戸を隔て、北は大矢野島に接し、西は有明町に隣接します。東は不知火海を挟んで八代市、芦北郡と相対し、南は姫戸、倉岳、栖本3町と接している。
 本町は30の島(有名島5、無人島25)からなり、東西7.6km、南北は11.7km、面積は52.01kuである。 

2.伸びゆく松島観光の魅力

青い海、青い空、白い砂浜、緑の島、明るい太陽と澄んだ空気、海辺では小鳥がさえずる、これが松島である。
◆国立公園天草松島は仙台の松島と長崎の九十九島と共に日本三大松島の一つに数えられている。この松島の風光は南国的な情緒とロマンチックな魅力に満ち、キリシタン殉教の哀史を秘めつつ、真珠を散りばめ天然の箱庭のような美しい島々を五つの橋で結んだものである。この「天草パールラインの景観」は素晴らしく特に千巌山、高舞登山からの展望は天下の絶景の地である。
昭和31年7月雲仙天草国立公園に指定され、松島はその中心地で松島多島海の景色は、また実に素晴らしく緑の松と青い海、真珠に囲まれた公害のない海のパラダイスである。
◆今や甘き宇佐松島は別府、阿蘇、熊本、長崎、雲仙の国際観光ルートとして脚光を浴び、大きく躍進しつつ更に海の公園松島として海中資源にも恵まれ、青い海の海底には色とりどりの海松やトサカの群生がみごとであたかもお花畑を見る様である。又海辺には天草パールマリーナや、海水浴、潮干狩り、魚釣り、キリシタン殉教の丘、天草五橋めぐり遊覧船、キャンプ場など、バラエティに富んだ観光地として観光客に親しまれている。
 (天草の松島ここに浮かぶなり 西海のいろ むささきにして   与謝野 晶子)
この詩は海の公園「天草松島」のすばらしい美しさに惚れ込んで詠われたものである。この詩のごとく松島は天然の景勝に恵まれ、ぬけるような澄み切った青空と、周囲を青い海で囲まれ“ 緑とオゾン ”と太陽がいっぱいである。

3.松島の文化史跡と名勝(名所)

文化財は長い歴史の過程で人間が造り出し、又人間をはぐくんできた有形無形の文化的所産であり、祖先から伝えられた民族的遺産であると共にかけがえのない人類の遺産でもある。私達はこれを後者に伝えるため、大切に保存すると同時に祖先の生活の足跡を知るために活用することによりその価値を高め、人々の生活に役立てなければならない。
(1)カミノ鼻古墳
永浦島の東端部の岬に9基の円墳群集、頂上の円墳は有濠墳輪をもっている粗雑な横穴室墳が多い。
(2)前島貝塚
 前島の熊大臨海実験所の裏手から西南端の岬にかけて丘陵上にひろがる貝塚である。架橋道路や他の施設で失われ、現在残っている部分は広くないが、天草では数少ない貝塚であり松島一帯の海底遺跡との関連もあって重要な遺跡である。貝層はもともと広かったが、層は薄く遺物等の包含量は多くない。今まで縄文時代の条痕文土器打製石斧、石鎌等が出土しており、縄文時代中、後期の貝塚と思われる。また特に有柄石鏃は九州では例が少なく、同地から弥生時代の小児棺も発見されたという。
(3)梅殿塚古墳
 熊本大学臨海実験所の西、前島貝塚の東端にある古墳で、実父長的な小家族の家族墓で、各世代の戸主を中心に逐次埋葬されたものである。
石室は破損して、奥壁と側壁の一部が残っているにすぎない。原形は南に開口する小型の横穴式石室墳で、径5m、高さ2m位の小さな封土をもっていたものと考えられる。出土品等明らかでないが、6世紀末から7世紀頃に築造されたものと思われる。このような小型の古墳は天草地方には比較的多いものである。
(4)大戸鼻古墳群
 阿村大戸岬の丘陵上にある古墳群で箱式石棺が1基と、横穴式石室墳4基からなる。このうちの2基の古墳は円文等が彫りこまれている。
装飾古墳で学術上極めて貴重な遺跡、昭和48年11月26日熊本県指定史跡となった。
 (イ)南箱式古墳
 南古墳のすぐ南にあり、砂岩の板石で組んだ石棺の内部には、円文が刻まれ円が塗られていたというが、風化剥脱して今は見られない。
 (ロ)南古墳
 南の丘陵上にあり、砂岩の板石で組んだ箱状の石室をもつ。古く封土が失われ、長く石室が露出していたため装飾石材は風化し、装飾文の一部は消滅している。装飾は南側壁に3個の同心円の陰刻があり、その中の2個は紐のようなもので鏡を懸垂したような状態を表し、又西側壁には浮彫円文と飛ぶ鳥を表したような彫刻があったという。
 昭和48年、49年度保存工事が行われた。
 (ハ)中古墳
 北古墳のある丘陵の南斜面にある横穴式石室墳である。円墳であるが墳丘も石室の天井も失われている。砂岩の大石をもって組んだ石室の床には三区の屍床が設けられ、以前に玉や鉄鏃や須恵器の破片が出たという。
 この古墳の東方約60mに石材があるが古墳石室の残材と思われる。
(5)山方遠見御番所の大西家
 教良木、内野河内に、天領時代山方遠見御番所があって、その山方役に大西氏が任じられ、上天草東部の山野を支配されていました。
この大西家は高い石垣造りの上に219年を経たかやぶき軒瓦づくりの、古い家屋で今日そのままの役宅として現存しているのは、天草では唯一のものである。なお当家の間取りは、座敷8畳、仏間6畳、広間10畳、裏座敷6畳、納戸4.5畳、居間12.5畳、そのほか母屋の建面積は約50坪である。あわせて306u(約92.75坪)であります。この大西家は、江戸時代の徳川家重九代将軍(宝暦6年116代桃園天皇)時代建築で219年を経ている。また、大西教良木局長は大西家の18代目であります。
(6)金性寺と金性寺大師(新四国霊場)
 (イ)金性寺
 淘汰山金性寺と称し曹洞宗の名刹である。創立は寛永14年寺沢志摩守父子領地の節キリシタン教徒の一揆により焼失、中絶したが、天草代官鈴木重成殿が着任され復興を三代将軍家光公に発願され御上聞に達し寺領を附置して正保4年鈴木重成殿が開基となり山口市瑠璃光寺より中華桂芳禅師を請じて開闢された。宗祖道元禅師の教えは広く法灯は十方を照らし壇信徒も旧内野河内村に枕流軒、教良木村に慈泉寺、今泉村に含光庵、楠甫村に永寿軒、浦村と旧5村末寺4ヶ所を有し信仰の場として隆盛をきわめた。
今から、130年前と昭和25年4月に2回にわたり、不慮の大火にあい広大と荘厳を誇った大伽蓋、宝物も焼失し惜しまれている。昭和26年九州屈指の庫裡(仮本堂)が再建され、昭和46年4月壇信徒の宿願で本堂が再建され、現在に至っている。尚キリシタン一揆中絶前は往時10代続いていたと予想される。
又、霊場の山には植物の珍種が生殖し大師路博物館として植物学の資料とされている。
 (ロ)金性寺大師(新四国霊場)
 金性寺大師は今から177年前(寛政10年)の安政5年(西暦1858年)肥後国天草郡教良木村庄屋植村豊左衛門邦明は、病身のため深く弘法大師を信仰し、四国霊場の参拝を発願して、行脚参詣すること3回にも及び霊験を得る。
参詣の都度八十八ヶ所霊場の土を拝受して帰郷し、心臓成就のため、新四国霊場の開創の議を金性寺17世超禅和尚に相図り、自ら率先浄財を投じて、当時境内に大師堂を建立し周囲の山林を切開き四国の各霊場に形とり、拝受の土を収めて八十八体の本尊石像を安置して、同所の遙拝所とした、その信仰は空しからず、天草新四国八十八ヶ所の本霊場として広く信仰を集め、旧3月21日を縁日とし、天草三大祭りの一つとして遠近の同行老幼の別なく善男善女等霊集し、その名声は九州一円遠く関西まで知られている。
 大師堂は昭和25年の火災と老朽により昭和50年3月再築されている。(岡部典生調)

◇名勝(名所)見どころ
 (イ)天草五橋(天草パールライン)
○天草は古くから水産、鉱産等の天然資源に恵まれ島陰の入江では真珠の養殖が行われ、また農業面でも、果樹、花卉、そ菜栽培、酪農などに適した好条件を備えている。
○こうした基盤をもち、人口20万人、九州本土の都市圏とも近くありながら、離島という悩みのため、あらゆる面において発展がはばまれ、その後進性をとり除くことができなかった。
○しかしこうした悩みを解消しようとする地元の人々の本土と天草を結ぶ“夢の架け橋”への情熱は昭和11年頃から次第に燃え始め、昭和28年から「離島振興法」により各種の振興事業が実施されてきたが、その後五つの橋で天草と本土を結ぶ計画が具体化し、遂に昭和41年9月24日完成した。
○愛称も「天草パールライン」と命名され、九州横断国際観光ルートの重要なポイントとしてクローズ・アップしている。
 (ロ)千巌山(名勝)
 今からおよそ330年前の西暦1638年キリシタン殉教戦の総大将、天草四郎時貞が信徒の将兵を集め島原出陣の祝酒を杓子でくみあったことから手杓子山と呼び親しまれていたが、田村博士が手杓子山に登山してあまりの奇岩怪石に感嘆して、千巌山と命名して今日に至っているが今もなお千巌山の所在地は手杓子山である。
 この千巌山は昭和10年6月国の文化財名勝に指定されている。この千巌山はよび名のごとく岩石が多く、しかも奇岩怪石の岩間には品のよい姫小松が生育している。眼科には美しい青い海に品のよい松の島が浮ぶ海の公園天草松島と天草五橋が手にとるようい見え、この千巌山から見下す展望がまた実にすばらしい。  西に有明海、そのはるかに雲仙を望み、北に大矢野島、三角港、東に不知火海を経て八代、そのはるかに阿蘇の噴煙をながめることができる雲仙天草国立公園の中心地である。
 千巌山は標高102メートルで、松島港から1.7キロ幅員6メートル、参上には70台を収容できる駐車場や展望台、休憩所、ピクニックベンチがあり美しい自然の環境の中でゆっくり休養し明日の活力を養うための遊歩道などがある。
 (ハ)高舞登山(名勝)
 高舞登山は標高117メートル、昭和10年6月、千巌山と共に文化財の名所に指定されている。
 この高舞登山は天草架橋(三号橋)の東側に位置し、千巌山の展望よりスケールが大きく、海の公園天草松島と、天草五橋を上から立体的に見ることができ、しかも一つ一つの橋のスタイルが手にとるように見えるばかりでなく、きれいな青い海の磯の香りがただよい、西に有明海を経て、はるかに雲仙を望み、東に不知火海、はるかに阿蘇の噴煙を眺めることができる松島随一の展望地である。高舞登山上まで松島港から、2.7キロ、幅員3メートル、参上には駐車場もある。この高舞登山周辺に古壇が多いことから、武将が山頂に登って、リクレーション場として舞ったことから高舞登山と名づけられたといわれている。

関西天草松島会